医療・介護から看取りを支える人たちのインタビュー ”ひと”

インタビュー“ひと”
看取りに取り組むフロントランナーたち - Human Inteview -

臨床宗教師とは何か 理念、役割、ビジネスモデル

Profile

東北大学
鈴木 岩弓その他

東北大学教授 文学研究科実践宗教学寄附講座担当

日本人の「死」が変わりつつある

「日本人の亡くなる場所、死ぬ場所が、病院から家もしくは施設に切り替わりつつある」といった流れの中に、いま私たちは存在しているのかもしれません。

 

しかし、実際に在宅看取り率が増えているのかというとまだそうでもありません。亡くなる方の数が増えているので絶対数は増えています。けれど、比率としては依然として変わらず10%前後のまま変化していないのです。病院以外で亡くなる方の比率は増えているのですがその増加の要因は介護施設がほとんどというのが実状です。

 

ただ、この先「在宅で亡くなる」というか、「最終的な場所は在宅なのか、施設や病院であるか」はさておいて、「終末期の方の一般的な生活の場所が、病院以外、すなわち家(自宅)や介護施設になっていく」というところまでは、ほぼ確実に実現される近未来だろうと考えています。これは、病床数の削減など社会的入院を解消しようとする国の政策推進状況やその背景事情を踏まえても明らかだと思われます。

 

実際にこういった流れは始まっており、そこを見ていく中で分かったことに「医療と介護が、在宅や施設の現場でお互いに深い係わり合いを持ち始めている」ということでした。そこから、在宅や施設という場で展開する「医療と介護の関わりや一体化」が、それにとどまらず供養の領域とも連携していくだろうと捉えています。

供養業界の出版社として、「介護や医療の専門職が本人や家族と深く関わっていくこと、そこで育まれる関係性が、どうこれらの方々の供養領域に影響をおよぼしていくのか」ということを探っています。

 

こういったターミナルケアの現場では、そこで働く看護師や医師の間で死生観やスピリチュアル・ケア領域についての意識や関心が高まってきています。他方で、欧米のキリスト教圏ではチャプレンという存在がありそこから派生する形で日本でもそういった方たちの取組みが、(少しずつですが)発展しつつあります。

そういったことを背景に、日本の伝統宗教の方々、とりわけ既存仏教界がこの状況に対してどういったスタンスを取り、どんな関わり方を行っていくのかを見定めたい。

 

スピリチュアルケアは、本来であれば宗教家が中心的な役割を果たしてもよいのではないかと思います。けれども、現実には医療職の方々が中心となった動きの方が活性化しつつある、高まっている…というのが現時点の私たちの理解です。

はたして従来の宗教家はこの領域にどう取り組んでいくのか。それを、例えば「檀家さんとご住職との間では何が起きていくのか」といった具体的な切り口で探っていきたいと考えています。

 

こういった問題意識で注目しているのが、ここでインタビューした東北大学の鈴木岩弓教授が進めている「臨床宗教師」です。

 

ただ、医療や介護の現場の現実を見ていると、そういう中に宗教家の方がスッと入っていけるのか?という点については疑問も残ります。

典型的には既存仏教の僧侶の方である宗教家の方が、「臨床宗教師」として活躍しようとしたときに、いまだ存命中の本人やご家族との関係性をどう築いていくのか、入り込めるのかといった点、つまり「その役割を効果的に果たせる関係に入っていけるのか」といった部分です。

 

というのは特に都市部において、形式的には檀家であってもそのお寺の方とほとんど接したことが無い、葬式のときだけお経をあげに来てくれるので接するもののそれ以外はほぼ関わりが無い、といったひとも多い。

もちろんその宗教に帰依した信者であるといったことがあれば、親しい人間関係が無くてもその宗派の僧侶ということで信頼を寄せられると思います。しかし、無宗教であると自認する方が圧倒的に多いのが実状です。

 

「ベースとなる親しい人間関係も宗教的な帰依もない…という状況の中で、どうスピリチュアルケアに入る関係を作るのか」という切り口から聞いていきました。

 

 

臨床宗教師とは

 

鈴木岩弓教授(以下、鈴木):岡部さんについて奥野修司さんが書かれた『看取り先生の遺言』(文芸春秋)を読んでいただいたらわかると思うのだけれども、岡部さん自身が在宅で看取りを推進するお医者さんでありながら、末期の癌を患っている患者でもあったのです。彼自身が、東日本大震災がある中で頑張ってこの「臨床宗教師」育成につながる動きを推進してくれました。

あと何ヶ月って言われていた彼は、常に自己の死を見つめながら生きていました。だから、もう気持ちが振り切っていて…。文字通り命を懸けて「なんとかしなきゃ」って決意の中で取組んでいたのだと思います。

 

例え話で、高い山の痩せ尾根を歩く話をしていました。右側の生の世界へ通ずる方には道しるべがたくさんある、でも自分がいま下りていかなくちゃいけない左側の死の世界には真っ暗闇が拡がるだけで道しるべにあたるようなものは何もないのだと。こういうときに「自分は医者だけれど、看取りの医者ではあったけれど、力が及ばない」と自分自身で痛感したわけです。

 

岡部医師のケースに限らずターミナルの現場には、医者、看護師、そして臨床心理士が現実にいるわけです。で、彼はそれらの人々がダメだと言っているのではなく、「それらの人々だけでは抜けてしまう部分がある」と感じていました。それがこの「臨床宗教師」のきっかけとなった一番の問題意識です。つまり医者、看護師、臨床心理士、このひとたちが死を見つめる人をケアすることはもちろんできるけれども、抜けちゃうところがある。それはどこか。結局、死後世界とも関わるスピリチュアルな問題になるのです。

 

死後の問題っていうのはつまらん話だ、下らん話だと割り切ることもできるかもしれません。けれど、その先どうなるか、実は誰もしらないのです。そこが正に信仰の世界で、信仰を持っているか持っていないかで、その領域に入れるかどうかっていう違いがある。宗教って言われるものはみんな、キリスト教・仏教・イスラームもみんな、あの世の世界を語っているのです。世界宗教って、結局キリスト教にしても、仏教にしても、イスラームにしても、根幹の部分は「現世拒否」なんです。「現世であるこの世っていうのは、仮の姿である。あの世でこそ救われる」という思想なわけです。

 

日本人にもムスリムの人がいるのはなぜかを考えるのが一番分かりやすいと思います。こういった根幹の共通性があるからこそ、砂漠の民のベドウィンだけじゃなくて、日本人でもムスリムになれるのです。この世は仮の姿で、たとえば肌の色であるとか、背の高さだとか、太っているか痩せているか、お金持ちか貧乏か、男か女か…といった区別を一切することなく、信じるものは救われるわけです。だから世界中にキリスト教も仏教もイスラームも、みな広まっている。

 

だから宗教者にとって一番重要なのは、この世ではなくてあの世が語れること。その部分は、例えば精神科のお医者さんでは踏み込めない。そのお医者さんに看ていただくのはいいことなのだけれども「死んだらどうなるんだろう?」「死んでしまったおじいちゃんはどこへ行ってしまったのだろう?」と言われたとき、つまりあの世を相手が見つめているときには医者としての立場からは関わりようがないわけです。霊的な問題は医者の領域ではないから。

 

それは臨床心理士もそうです。専門が心理の領域なわけですから。岡部医師がやっていたことで、お迎え現象の研究というのがあったわけです。彼が以前宮城県立がんセンターに勤めていたときには一切経験しなかったにもかかわらず、在宅ケアをするようになったときに初めて直面したのが、お迎えを見るという現象。つまり末期の患者の多くが、すでに亡くなった方がやって来たのをお迎えとして見る、ということが起きたわけです。その経験がひとりだけで終わっていたらそれまでだったのだけれども、そうではない。たくさんの方がそういった現象を経験する。

そして、彼はそこにある経験則を見つけ出したわけです。そのようなお迎え現象を経験した人は大往生する、つまり穏やかに亡くなられるという経験則です。

 

中には死を怖がって最後まで恐怖や不安を感じた中で死ぬ人もいるわけです。それで、そういった方がなるべく怖がらずに穏やかに亡くなられるにはどうしたらいいのかと考えた。つまり大往生するようにしてあげるにどうしたらいいのかという問題意識です。

そこで、お迎え現象を経験するかが穏やかな最期を迎えやすいというところに着目して、「だったら、人がお迎えを見られるような状況を作ってあげたらいいじゃないのか」という考え方に変わっていったのです。科学者的な、ちょっと飛んだ科学者的な考え方を持っていらっしゃいました。

ちなみに、そうした発言を繰り返すものだから岡部さんはお医者さんの世界でもけっこうな変わり者だと言われていました。

それはともかく、彼から「お迎えを科学的に研究したいので手伝ってくれ」という話をされました。

広い意味の宗教学的な対象ですので、うちの院生も参加して、なにが、どんなふうに見えるのか、どういうことがあったのかっていうことを調べると、そういったいわゆる「お迎え」を4割ぐらいの人が見ていることが分かったのです。

 

お迎えを見るという現象があるということを、つまらんとかくだらんとか余計なことだと捉えるのではなく、「お迎えにあらわれた相手をいま私は見ているのだ」と感じている人がいるという事実をどう扱うのかという問題として捉える。そして、お迎えを見たと認識される方の場合に最期が穏やかなものになりやすい、という現実がある。だからお迎えを見やすい場や環境を整えることで、よき死を迎える人を増やせるのではないか、自身が取り組むターミナルケアにも役立つのではないか…。そんなもくろみが岡部さんにはあったのです。それで、そういった研究を行う。

 

結局、死をめぐる問題には医者と看護師と臨床心理士だけではカバーしきれない領域があるといったことを、岡部医師は主張されました。われわれは震災直後くらいからグリーフケアが必要な人たちに対する宗教者の活動バックアップする動きを被災地で展開していました。その実践の中で、こうした関わり方が役に立つということが実感としてわかってきていました。

 

「被災者の心のケアに宗教者の力は役立つ」と分かったのですけれど、「とはいえ、布教じゃおかしいよね」とも感じました。簡単に言えばこういうことです。

被災地の方々は大体が曹洞宗なのです。そこへ日蓮宗のお坊さんが行って「南無妙法蓮華経」と唱えるのでは布教になるし、曹洞宗の教えに慣れた人々には全然理解されないわけです。教えが違うから。

そうした中からわれわれは、「自分が宗教者であるというベースを持ちながら、それを基礎的に考えながら、異宗派異教徒の人に寄り添えるか。そういうテクニックを勉強する必要がある」という課題に至ります。そこから「臨床宗教師」養成のための寄付講座を作ることになったのです。

 

実はこのアプローチについて言えば、キリスト教には「チャプレン」がありますし、仏教にも「ビハーラ僧」があるのです。けれども、それらの言葉を使ってしまうとどうしても一宗一派がやっているようになってしまって具合が悪い。それで名称についてはだいぶ紆余曲折いたしました。

「臨床宗教家」と呼んでいた時期もありましたし、(臨床宗教師の)「師」を武士の「士」で使っていたときもありました。「安寧療養師」とかも。

ものすごくいろいろ考えたのです。考えた末に「臨床宗教師」っていうのが一番いいでしょうということで落ちついたわけです。

 

今まで研修を8回、一年に二回ずつ行いました。この12月までで126人の臨床宗教師が誕生しました。

そのうち十数人は病棟や介護施設へ入って仕事をしています。それらの中には公立病院にもあります。これまで「民間」の病院が多かったわけですけれども、最近は県立病院、市立病院からもオファーがあって、今年の六月からは東北大学附属病院の緩和ケアでも働き出しています。

そういった現場では「何か亡くなった後のことで不安があるとかお話したい人は、この人がお話できますよ」という言い方で看護師さんにつないでもらっているのです。

 

「126人のうち、現場実践に関わっているのが十数人というのは少ないのでは?」といった指摘もいただくのだけれども、決して少ないとは思っていません。理由は、この臨床心理士となられた方は、すでに仕事つまりお寺などを持っているわけで、檀家といった方々に対するケア以外に手を拡げることが難しいという事情があるのです。

とはいえ、そうした事情を持つ皆さんも、この研修を受けたことで単なる宗教家ではなくもっと広い視野をもった臨床宗教師として、そういった方々に対しているものと思います。

 

もっと言えば、われわれとしては臨床宗教師の方に「介護施設とか緩和ケア病棟で働いてもらいたい」とだけ考えているわけではないのです。

いわゆる地域包括ケアシステムに対応できるように自分のお寺を展開させていきたい、つまり自分のお寺の信者さんや檀家さんだけを相手にするのではなく、自分のお寺のある地域全体に対してこういった関わりをしていく。そういう新たなお寺と地域の関わり方を展開する人材の育成も望んでいるのです。

 

副住職なり住職なりをしていて檀家さん対象にやるのもいいですし、さらに檀家以外の近所の方々のケアにも役立てていただければと考えています。ですから、「介護施設や緩和ケア病棟などのターミナルケアの専門施設に行くべきだ」という言い方はしていないのです。そういった施設に行ってくれればそれはそれで大きいけれども、自分の寺でそういうことをやってもらうのももちろんありがたいと考えています。

ある意味、現代社会における宗教者の役割を再考する試みといってもよいと思います。

 

こういった役割であったり活動は、歴史的には通常のお寺でやってきたことであって、そういう意味でいうと「何を今さら」ってことになるのだけれども、ただポイントは、檀家という自分のホームの関係の人だけを相手にするのではなくて、「アウェイの(つまり異宗派異教徒の)人に対してもそういう話ができる」ということが、従来までと違うところ。つまり、住職が檀家にお話しするということと最も意味合いが違うところだなぁと考えています。

 

 

編集部:亡くなった後のこと、つまり「あの世」のことについて話すというのは、その宗派の方に向かって話すのであれば、違和感がないのですけれども、異宗派異教徒の方に話すとなると「あの世」をどのように伝えるのでしょうか?

「あの世」の描かれ方って宗旨・宗派によって大きく異なる部分があると思うのです。そういうとき、つまり異宗派異教徒の方に別の宗教の宗教家である臨床宗教師の方がお話しをされるとき、どのような「あの世」観を説明するまたは前提とするのでしょうか?

 

 

鈴木:あくまで相手のです。相手の「あの世」観を引き出して整理してまとめてあげるのです。誤解のないように申し上げますと、臨床宗教師側があの世観を提示するのではないのです。

これは理想論かもしれないのですけれども、ある宗教の分野でプロフェッショナルとして認定されたのが宗教者という職業だと思うのです。そういう風にお墨付きを貰っていることが第一歩であって、そこが臨床宗教師のスタートだと思うのです。宗教者は、現世だけじゃなくあの世のことも、ある宗派の教義の中で勉強してきた経験を持っていらっしゃいます。そうした経験を踏まえて相手の人に語ってもらって相手の語りの中でそれを整理してあげるのが臨床宗教師の役割だと思うのです。布教するのではなくて。

 

たとえば僕は宗教学者であって宗教者じゃないわけですが、宗教学者がそんなことやっても、僕はたぶん僕なりの「あの世」感を持っているわけだけれども、それは体系的でもないし、なんでもないわけです。そういう意味では経験が狭いわけです。

でも宗教者っていうのはそういう世界観、この世とあの世がどう結びつくかという勉強もしてきているわけですよね。で、そういう経験を持っていることが、「あの世」とか死んだ後のことを考えている人に対してお話しする素地になっていると思うのです。その相手が異宗派異教徒であっても、です。

だから、「この内容を語れ」というわけではなくて、自分がそういう経験をしてきていることを素地としつつもそれをそのまま語るというのではない。でも、教団でそういうことを語れるお墨付きを持っていることがスタートになります。

ある高度な知識を持っておりそれをベースに仕事をする方という意味で高度専門職業人という言い方をするわけですけれども、臨床宗教師も高度の専門職であると思うわけです。

 

「話すときに自分から自分の「あの世」観を説明するのではない」というのをもう少し説明します。

たとえば「死んだおばあちゃんはどうしているんだろう?」と問われて、自分から「死んだらこうなるんです」と言うのじゃなくて「どう思う?」と訊くとか、「ずっと前に亡くなったおじいちゃんは今、どうなっていると思う?」っていう感じで相手に喋らせる。

相手に喋らせたことで、それを整理してあげて、たとえば浄土真宗だと魂とか霊の存在と言うものを認めないわけですが、「霊なんていません」となると布教になっちゃう。

そういう話をたとえ浄土真宗の臨床宗教師が言われたとしても、そこで霊を否定する話をするのではなくて、「ふうん、じゃあ霊ってどういうもの?」とその人の中の考え方を聞いて整理していく、それがいわゆる傾聴という方法です。

 

特に被災地の人が大変だったのはそういうところで、結局どうしたらいいか分からなくなっている人がたくさんいて、自分が手を離したから死んじゃったおばあちゃんはどうなった、とかずっと気になっているわけです。やっぱりそういうときにその人に語らせて、その人自身が気付かないところをどう考えているか整理してあげる。ちゃんと受け止めてくれる他者に語ると楽になるわけですから。

 

グリーフケアの世界でよく言われることで、こんな話があります。

自分の近くで死者がでたときのグリーフの状態にあるときに、じっと黙っているとそのグリーフからなかなか開放されない。だけれども、その体験したことや感じていること、引きずっていることを人に話せるようになってくると、あるいは人前で泣けるようになってくると、だいぶケアされていくということ。

人に悲しみを見せられない、場合によっては無意識のまま一人胸の内に溜め込んでいたりするうちはまだまだ苦しいのです。ケアのアプローチの中で自然にその扉が開かれていくように導くこと。それがやっぱりすごく大事なことだったりするのです。

 

 

編集部:そうすると、そこで語られることっていうのは、必ずしもあの世に関する話ばかりではなくて、喪失体験だとかそういった実際に経験した事実やそれに伴う感覚的な側面だったりするわけですね?

 

 

鈴木:そうです、経験だとか、感情だとか、考えだとか、解釈だとか…そういった諸々をその人自身が整理していく手伝いをしていくのです。ですから、心療内科や精神科のお医者さんが行うカウンセリングに重なる活動でもあります。

ただ、そうしたときにお医者さんではその過程を支えたりうながしたりができないことがあるのです。「あの世にいったあの人はどうなっているのだろう?」とか(笑)。そういう知識は、自分なりにはある人も多いのでしょうけれども。

臨床心理士の方や看護師さんもお医者さんと同様の状況だろうと思います。だから、そこだけ抜けてしまう。そういう、非合理的な話ができる人はやっぱり宗教者しかいないと思うのです。世界の歴史を見ても、この方面に対して正面から対峙してきたのは宗教者だと思うのです。

 

 

編集部:布教される方が「あの世」観を語るのは、よくやられていることですし割とイメージがつきやすいのです。けれども、相手から引き出して、相手の話を整理していく、相手の認識を整理していく…というプロセスをお坊さんがおこなっているイメージがあまり湧かないのです。どちらかというと考えを発信するのが得意な職業というイメージがありまして。

「お坊さんというキャリアや経験を積んでいるからこそ、非合理なテーマについての傾聴がより適切に行える」という上記のお考えをもう少し詳しくお話ししてもらっていいでしょうか?

 

鈴木:その点の説明は大変難しいのですが、結局、自分の宗教的世界として「あの世」観をもって布教できるのが宗教者だから、他の人の「あの世」観に対してもある程度共感的理解ができると思っているのです。

霊の存在とかそういうものが、相手の認識にあったとしても共感できる。この世じゃないものに対するものを信じる、信仰に対する共感的理解ができるかどうかがすごく大きいと思っています。そのときに自分の信仰の世界を教えられるくらいの高度な専門性を持った方ならば、異宗派異教徒の人々の「あの世」観にかなり入っていけると思うのです。

 

 

編集部:実際に、実践を通してやっていかれている方を見ていらっしゃって、そのお考えはあたっていらっしゃったのでしょうか?つまり「宗教家として自分の信仰を確立している方であれば、他人の信仰を適切に引き出せ整理できるだろう」というお考えはその通りだったのでしょうか?

 

 

鈴木:はっきり言って、全員が全員うまいわけではないです。ピンからキリまでレベルはいろいろですね。ですから少しでもそういったことが適切にできる方になってもらいたいと考えているわけです。

たとえば20代で講座にこられる方がいるわけですよね。どこかの宗教大学を出て、僧侶の資格を取ってすぐ。他方、今までの取得された中でも上は70代の方もいらっしゃいました。お年を取っている方だと。やっぱりそういったキャリアが全然違います。

もちろん、年齢だけでなく他にもいろいろと多様な要因によって違うのは確かです。僕らは、この講座の3ヶ月間の間に一通りのカリキュラムを行って「そういったことをやりましたよ」という認定を差し上げているのであって、それでもって一定のレベルがあることのお墨付きとして出しているつもりはないのです。「うちでこれだけの時間勉強しました」ということの認定であって、その価値を認めて「この方であれば間違いない」と認識されたら雇ってくださいと。

 

僕らはそれでいいと思っています。日本全国のいろいろな大学で講座を開き始めているのですが、日本臨床宗教師会というのを作ったのが今年(2016年)の2月末で、まだ作ったばかりなのです。これをもう少し整備していくと品質保証的な意味を含むある程度公的な認定証のようなものになっていくと思います。

日本中のいろいろな大学が関わって作り出していっているものですから、現時点では講座のカリキュラム内容にもバラつきがあります。そのうちに平準化に進んでいくと思うのですけれども、現時点ではまだそこには行っていない。動き出したところですね。

 

 

編集部:先ほどのお話の中に「年齢だったり、宗教家としてのキャリアの蓄積といったことによって、他者の信仰に対する共感的理解であったり、他者の信仰を整理していくところにも個人差がある」とあったかと思います。具体的にはどのような差としてあらわれるものなのでしょうか?

 

 

鈴木:やっぱり、この……なんでしょう。その相手の方が抱えているキズの大きさによって…、かなりキズを負っている方に対して、まだ大学を卒業したばかりぐらいでキャリアがない人だとやっぱり潰されちゃうっていうかね、やっぱりそういう感じがないわけじゃないです。

 

そういう経験を実習とかでやっていくわけです。その実習で会話記録っていうものを出してもらうのです。その会話記録の中で、自分はこの人と会ってどういう発話があってどういうことを喋ったか、そして相手がどういうことを言ってきたのか、そういう記録をきちんと取って、それを出してもらうことになっているのです。それをいろんなやり方があるわけですけれど。

 

例えば、ひとりの人がある経験をしているということでその人をクライアントに見立てて、臨床宗教師役の受講生がその人との会話を行っていきます。それを周りで見ていて、そのやりとりの妥当性とかですね、そういうことをみんなで意見を言って、考えていくわけです。「こういうときにこう言ったのはいいのか」とか。

さらに言えば、その会話記録を書くときに、自分が何を思ったのかといったことも正直に全部書いてもらうのです。

 

そういう実習に対して、われわれが一番大切にしているのがそのチェックです。この感情の出し方っていうのは、違う言い方になるとどういう風になるのか、といったその人の内面にあるのだけれども、意識としては気付かなかったことを引っ張りだしたりするのです。

そういうことをやったことのない人は、初めてで上手くいくわけはないのですけれど、そういうことをきちっと記録してもらって、みんなで何が悪かったのか、まずは他人をチェックしてもらいます。そしてグループ単位でそれを討論したりして、検証していくわけです。

 

こういったことを何度も繰り返します。3ヶ月の間に何度もありますし、その3ヶ月で認定証を出すわけですが、その他、年に何回かフォローアップ研修を全国各地で開いています。たとえば清水寺を借りてやったこともあります。

そういったことで講座の三か月が終わっても、実習の場でさらに上を目指していくのです。

その意味でわれわれの養成している臨床宗教師には終着点はないのです。

 

 

編集部:そもそも論なのですが、内容をお聞きしていると割とオープンダイアログや、臨床心理系の実習の構造というか、そういった分野に近いものを感じます。臨床宗教師の育成としての独自なところはどういった点なのでしょうか?

 

 

鈴木:そうですね、似ているところはあると思います。ただ、考え方の基盤が違うのです。お迎えとかそういうことを平気で当たり前だと思っている、そういう方がいるかって大きいと思うのです。スピリチュアル・ケアのところでも話したのだけれども、たとえば看護師さんであればお迎え現象くらいであれば慣れていらっしゃる方も多い。だけれども宗教的な問題、たとえば「あの世」観ということになるとどうしようもできないのですね。

 

さっき説明した「ひとつの信仰を自分でしっかりと理解した」という素地がないと共感的な理解はできないから入り込めない。そこがたぶん一番違うところなのだと思います。今お話ししたようなことは医療のスピリチュアル・ケアでもかなりの部分扱われています。重なっていたりするのです。双方的に重なっているのだけれども、それぞれの独自性の部分で抜けているところもある。

 

だから医療系の人も必要だし、臨床心理士も必要だけれど、抜けてしまっている宗教的領域もある……結局ここが上手くタイアップできればいいのだと思います。医療や介護の地域における臨床の世界で今「多職種連携」とか「地域包括ケア」っていうことが目指されていますよね。まさにそれが必要で、医者もいれば、臨床心理士もいれば、看護師もいる、そしてここに抜けている部分をカバーする臨床宗教師も入れてもらえれば、幅の広い多職種連携ができると思うのです。

 

ですから、厚労省も関心持ってくれるといいと思っているのです。「地域包括ケアシステムに臨床宗教師を!」ということで厚労省とも話していきたい。誰かいませんかね?(笑)

研修修了者は仏教のお寺さんが70数パーセントですけれども、それ以外にも教派神道の神社だとか、もちろん牧師さんの教会もありますし、他にもいろいろな宗派があります。たとえば天理教だとか、そういう教会もあるわけで、結局地域に根ざしたそういう施設を基盤に活動している人たちがほとんどですから、そういう意味では地域包括ケアシステムを担う、有力な人材なわけですよね。

 

編集部:今おっしゃられた基盤となる部分についてひとつ教えてください。なんらかの宗教の中で布教できる程度といったある一定のレベルまで達することが基礎となっていて、そこに上乗せする部分として臨床宗教師としてのトレーニングや知見を付けていくというお話だと理解しました。そのときに基盤となる宗教であったり教団であったりというところには求める基準だとかクオリティだったりとかあるのでしょうか?

臨床宗教師としての基礎として満たすレベルがあって「この宗教団体の○○という資格は基礎として十分と認められるけれど、これは認められない」とかいったような、ジャッジの基準とかそういったことはどうされているのでしょうか?

 

鈴木:それは、やっていないのです。というのも、そこをやってしまうと下手すると「○○教はいいけれど、○○教はダメだ」といった話になってしまうじゃないですか。

私の専門の宗教学でもそうなのです。「どの宗教がよくてどの宗教が悪い」ということをオウムのときに言って大学を辞めた人がいましたが、本来宗教学者は個人的な価値観に基づくああいったことは言わないのです。そこは価値の問題ですから。

そこには触れないのが前提で、ともかくある教団からお墨付きをもらっている、宗教者として既に認定されている事実を研修受講の必要条件としています。

 

心配されていらっしゃるのは、数値で表せるのかどうかは別として、「これだけ深い理解を求める宗派がある一方で、いい加減なレベルでも布教者として出してしまう宗派がいたらどうするの?」ということだと思います。ですが、はっきり言って僕らは踏み込まない。

「どこかの宗教団体がお墨付きを出した」ということ、僕らはそれを「宗教者」と言っているのだけれども、確かにそれだけじゃ判断できないので「信者の相談に乗れる者」という言い方でさらに求めるレベルを伝えています。実際はこれってとても緩やかな基準です。

 

そうするとどっかの檀家総代でものすごく信仰に熱心な人がいたとして、「それじゃいけないのか?」ということになる。だけど、それはお墨付きを持っていないからいけない、「お墨付きを持っていて、加えて信者の相談に乗れる人ならいい」そういう言い方をしているのです。そこは実は、厳密に考えたらグレーです。けれども一応そこで切っています。

 

われわれとしては宗教に価値観をさしはさめないので、どこかの宗教団体がお墨付きを出したっていうことを基準に「あなたは宗教者なので、われわれの研修を受けていただいても結構です」としているのです。

 

編集部:そうすると、新宗教の方も来られますよね?そういった団体の方もOKなのでしょうか?

 

鈴木:いらっしゃいます。可能性としてカルト宗教の方が来ることだってあるでしょう。例えばアレフとか、来られる可能性もあるわけです。

そうなったら考える必要があるわけですけれども、これまでのところはそういうことが問題となるような事態は起きてこなかったのです。

 

最初にわれわれがこの講座を始めたときは、「心の相談室」っていうかたちで被災地へ入っていった背景があって、そのときは宮城県宗教法人連絡協議会という団体が母体になっていましたから「そこに入ってないとダメ」ということにしていたのです。「そこに入っていない宗教団体の方はダメ」ということにしていたのです。

けれど、今はそこをもう少し緩くしています。ただ、そこのところが突拍子もなくなってくると、そのときは考えなければならないことになるだろうと思います。

 

1回に受講できる人はこれまでの最高で19人でした。もっとたくさん応募してこられますので、そこでセレクトすることになるわけです。申込の際には課題の文章を相当書かせますので、そういう過程の中で、その方がこういうことを本気でやろうとしているのか、あるいは今の流行に乗ってちょっと箔をつけようと考えているのか…そういったいろいろなことが分かってくるのです。審査は総合的にチェックしています。属する宗教団体がどうなのかということはそういったことのひとつに過ぎないとも言えます。

 

あと、気を付けてチェックしているポイントがもう一つあります。自分が救いを求めている人、「自分が救われたい」という人も来るわけです。「だからこそ臨床宗教師をやりたい」という方。臨床心理士を目指す人の中にも相当数「自分が救われたい」という方が含まれているそうですね。こちらでもそういう傾向があって、自己救済のために参加しようとする人は避けるように気をつけています。そこが分かるような課題を出して、できるだけそういった「自分自身の課題を解決すること」が中心にある方が入らないよう、チェックをしています。

 

 

宗教的ケアとは…スピリチュアルケアとの違いなど

 

編集部:ところで、先ほど出てきた「宗教的ケア」と、ターミナルケアの世界でよく言われる「スピリチュアル・ケア」というのはどういう風に区別されていますか?

 

 

鈴木:そこのところは、微妙です。難しいのですけれどもかなり重なっていると考えていただいていいと思っています。でも、結局宗教的な信仰に近い部分にかかわるとなると、宗教的なアプローチでなければできないような部分があるのだと思います。そこにあたるのが宗教的ケアだと考えています。もちろん宗教的でないアプローチ、例えば看護師さんが通常やられているようなスピリチュアル・ケアのアプローチで精神的に癒すというのもあると思うのです。

ただ、さっきお話しした他界観念といったものですね、そういうものと結びつくようなものになってくるとなると、やっぱり宗教的ケアになっていないとできない、そこに大きな違いがあると思うのです。

 

例えば、極端な話としてはそういう状況で看護師さんが、「数珠を持ってこういうふうにやったら…」というようなことはやはり言えないですよね。そこが重なっている部分はありつつも、宗教者じゃなければできないこともあるのではないかと。「それは幻想だよ」って言われたらそうかもしれませんけれども、私たちとしてはこだわりたいと思っています。

それが宗教的ケア、それができるのは宗教者じゃないとダメだ、ということですね。

簡単に言えば「看護師さんによってスピリチュアル・ケアはできます。それでその看護師さんが宗教者ならば宗教的ケアもできるけれども、単に看護師さんということだけであったら宗教的ケアまでは入れないだろう」と考えています。

 

 

編集部:なるほど。

臨床の場で患者さんの宗教観を引き出すのは看護師さんでもある程度はできるだろうと思います。ただ、その場合でも「看護師さん自身の宗教的なスタンスは無いものである」ということを守りながらになるでしょう。プロとしてケアに関わる立場で「私はこう思うよ、こう信じているよ」ということを表明しつつ、「そして、あなたはこういう思いなのですね」というのを引き出して整理するのは確かに宗教者じゃないとできないことですね。

 

 

鈴木:そうです。だから、全然見えないものなのです。氷山の海の中の部分として、宗教者のそういう経験、信仰があるわけです。表に出る部分はかなり看護師さんと被る部分があるわけです。こういった見えない部分が無くただ上だけがあるだけですと、結局理解がどうしても表面的になってしまう。相手を深く理解するっていうのは自分自身がこういう見えない部分を持っているからこそできる。僕は、そういうものを持っていない人がやったら、やっぱり薄っぺらになるし、そういうことでは依頼者の本当の心の叫びみたいなものを聞き取ることができないのではないかと思います。

 

僕自身もそういう経験をしたのです。先ほど出てきた被災地支援の一環でCafé de Monkという移動型の傾聴の場を提供していて、私自身そこで1回だけ傾聴的なことをやっちゃったことがあるのです。けれども、やっぱり僕にできる範囲・できない範囲があるのです。

 

そこはケーキとか紅茶とかを出しながら被災者の話を聴くなごみの場ですが、あんまり男の人は来ないのです。そのときもほとんど女性ばかりの中に、ひとりのおじいさんがいらっしゃいました。ですが、みんながあっちでワーっと話しているのを、おじいさんはひとりこっちでね、そっぽ向きながらケーキを食べていて…。ほんといかにもつまんなそうな顔で。

 

そのとき、来られているお坊さんとか、牧師さんが少なかったのです。そのおじいさんをほっぽらかしちゃっている状況だったのです。普通は僕は宗教者じゃないので、自制して一切やらないのですけれども、そのときは気になっちゃっいまして「ちょっとこのままじゃまずいだろう」と思って話しかけたのです。「どうでしたか?」という話をしに行ったら、つまらなそうにケーキを突っつきながら話をし始めてくれたのです。

 

たまたま僕が宗教民俗学っていうのをやっていて、特に墓制とか死の研究もしているもので、それでお墓の話になったら得意げになって話してくれて。「実は震災前、うちの墓地は斜面で下にあった。それをたまたま震災前に上に新しく直してつくった。しかも震度6で崩れもしなかった。ここにおいてあった周りの墓は全部ひっくり返ったけれども、うちは大丈夫だった。俺がやったんだ」みたいなね(笑) 

 

それでだんだんと乗ってきて、顔色も良くなって。で、また僕に墓についての変な専門知識もあるものだから色々話が盛り上がってきて、雰囲気も変わって。最後の一切れくらいのケーキを食べればいいのに食べないで、もうわーっと喋ってくれて、そのうちに集まっている他の人たちの賠償金やお金の話にもなって「彼が住んでいる土地は補償もなさそうだ」とか、「赤い帽子を被ってるあいつは、もう他に移ることが決まっていて、それで遠くに何百坪もの土地を買ったんだ」とか、そういう不平不満のようなことも話すようになったわけですよ。

 

それでね、結局途中からだったから2時間半くらいかなあ。ともかく僕は、宗教民俗学の手法、フィールドワークの手法でやり取りしていきました。ヒアリングってやつです。

ヒアリングは、「自分はこういうことを知りたい」と思ってするわけでして、基本的に相手に喋らせるのです。ただ、よくあることなのですけれども、例えば「ニューギニアに戦争に行っていたころはなぁ…」といった話をしたくなるおじいちゃんがいるわけです。そうするとすぐに「わかりました、わかりました。ニューギニアはいいのだけれども、で、こっちは?」と制御するのです。経験上そういうことは慣れているわけです。

 

だけどおじいちゃんに対しては僕が救おうと思っても救えないし、ただおじいちゃんのいろんな気持ちをこう整理してあげることで、相手に喋らせる。そのときはまあ制御する必要もなかったのでほとんどしゃべらせているだけなのだけれども、何かヒアリングの手法なのですよ。僕が喋るのではなくて、相手に喋らせる。合いの手を入れるわけです。「今のことって、こういうこと?」とか。

 

そうやって僕が、その発言の理由であったりとか、真意であったりとか、そういうところを整理し直す形で話を聞いていったら、そのおじいちゃんも整理して話ができる。そうして「今日はもう終わりです」ってなったら「えっ、もうこんな時間になっちゃったの?」って。

心なしか顔色も良くなって。なんか始めはこうやってつまらなそうに食べていたのがね、全然違う表情になって帰っていったのです。

あれを見て「結局こっちが喋るのではないのだな。あぁ、そうか!宗教民俗学的な、フィールドワークの部分で、ある部分はできるのだな、同じだな」ということを理解しました。

 

ただ、僕はその経験をふりかえっていろいろ考えることができました。

宗教者であったのならば、例えばあそこであの世の話とかが出てきたときにも十分な対応ができたと思うのです。そのときは、そのおじいちゃんがそういう話も出さなかったから、僕でもできたのだと思うのだけれども、例えば霊にとりつかれているとか、そういう話になったときは僕にはなにもいえないのです。対象としては研究しますけれどもね。それをどう言えばいいかなんてわからないですよ。

 

ところが宗教者の人は「そういうこともありうるよね」といった感じで、自信を持って入っていけるわけです。やっぱりその辺があるのかなって。そこのところで相手に話すってすごいことだなって思うわけです。そういった宗教的なことだけでなく、なんでもいいから話をしてもらうだけでも立ち直りが早いんじゃないかなって気はしますけどね。

 

編集部:なるほど、共感というかその宗教的な領域での関わり方が違うということですね。

 

鈴木:そうですね、やっぱりベースが違うから。

 

編集部:布教っていうことではないでしょうけれど、「自分としてはこういう考えだよ」ということで、臨床宗教師としてご自身の「あの世」観を説明することはあるのでしょうか?

 

鈴木:普通はやらないはずです。もちろんずばり訊かれれば、つまり「お坊さんはどう思う?」って問われたら喋るとは思います。でも、こちらから積極的に「ちなみにこういう考え方もあるのだけどね」といった流れでの話を普通はしない。それをしちゃうのは余計なお世話であるので、相手がどうするか、全ては相手の立場からまとめていかなきゃいけないので。こっちが「3種類ありますけど、どれにしますか?」って提示するような話ではないので……。

 

編集部:禁じているわけじゃないけれども、積極的に出すわけでもない?

 

鈴木:そう、会話の途中でどうしても「お坊さんはどう思っているの?」って、そういう人もいますから、そういうときは言っていい。「僕はこう思います」でいいと思うのです。ただ、それをメインでやっちゃったらまさに布教であって、臨床宗教師の役割とは違う。臨床宗教師は、宗教者としての経験を活かしつつもケアすることが目的なので。

 

 

現場にどう入っていくのか?

 

編集部:今度は、実際臨床宗教師の方が、スムーズに現場で活躍できる形で入っていけるのか?と言う点をお聞きしていいでしょうか。

 

と言いますのは、在宅看取りまで積極的に取り組まれているクリニックのお医者さんだとか訪問看護ステーションの看護師さんだとか、医療職でターミナルケアにたずさわっていらっしゃる方って、今ご説明いただいたような宗教的ケアが必要なシーンで患者さんを支える役目を担わざるを得ない状況に向き合うことが多いからでしょうか、自らの死生観を深く突き詰めていらっしゃる方が多くいらっしゃるのです。

その方たちは医療の現場でターミナルな状態の本人や家族に日々向き合っているがゆえに、そういった役割を果たさなければ…というニーズをとても切実に感じていらっしゃる。

 

逆に言えば、そういった医療や看護での実務的な関わりやそこで培われた信頼関係があるからこそ、宗教的ではないまでも、少なくともスピリチュアル的なケアにスムーズに関わっていける状況があるように思えます。

 

他方で、こういった実務的な部分である医療や看護での関わりが無い中で、宗教的ケアを果たしていくための関係づくり、関わりを持っていく、信頼関係を作るというのは簡単なことではないのでは?という気がするのです。そこはどういう形で入って行くのでしょうか?関わりを作っていくのでしょうか?

 

 

鈴木:既に緩和ケアの中に臨床宗教師が常駐するようになっている医療機関もいくつか出てきているわけです。はっきり臨床宗教師と名乗って入っているところもありますし。あるいは、介護や生活支援のボランティアということで入っていて、その中で患者さんにそういったニーズが出てくると、看護師さんから「誰々さん、来てください」っていう形で話に行くとか。終末期の入居者がいる施設へ毎週のように入って、お話してくる人もいます。だから、そういったニーズに直面するという点については看護師さんと同じような感じだと思います。

 

だからそういった形での働く場が増えてくれば、キリスト教のホスピスケアのチャプレンと同じように、日本中のどの病院にも臨床宗教師が必ずいるって状態になれればいいなと思っています。実はもう台湾大学の医学部の緩和ケア病棟にはそうした人が常駐しています。

ベッドは27床です。そこに「臨床仏教宗教師」という人たちがいて、そこで看護師さんと一緒にいろいろやっています。患者さんが死の不安について「話をしたい」っていうことになれば、そこでお話をされているようです。

 

 

編集部:実は私は立教大学出身なものですから、ターミナルケアに関わるチャプレンの方の話も聞いたことがあるのです。やはり「入るときは苦労する」というお話でした。相手が熱心なキリスト教徒であれば、ある程度入りやすいですけれども、その前提がないときに入っていくっていうのは、難しいと。

特に日本で関わろうとしたときに「あなた、何? 何かしてくれるの?」っていう目で見られている段階では、すごく宗教的ケアが提示しにくいという…。

 

例えば、看護師さんであれば、信頼関係のベースは実務的なところで培っていく。看護で入っていって相手との信頼関係が構築されてきて、かつ相手の気持ちが「そっち」に触れたときにすっとそういう話をしていけるので、ある程度スムーズにスピリチュアル・ケアに入っていける部分があると思うのです。

けれども、そういった関係がないところで「臨床宗教師の○○です、こんにちは」って入っていったときに、なかなかこう難しい状況であるかと思うのですが…。

 

 

鈴木:必ずしも、臨床宗教師と名乗るわけではないですね。名乗ってもいいところは名乗るけれども、そうじゃなくただのボランティアとして入っていく。このごろはほら、スキンヘッドの人、頭を剃っている人もたくさんいるわけだから。(笑)

作務衣を着ているわけじゃなくて、普通の格好でしかもエプロンなんかして入ってお手伝いしているので。そんな形で入っていきますね。

 

 

編集部:それは介護のボランティアとして入っていくのですか?

 

 

鈴木:看護だとか、介護のお手伝いとして。だからメインで話を聞きに行くっていうことではなくて、お医者さんにくっついて入ってその横で助手的な形でなにかやっているっていう。そこで人間関係ができれば、そこで入っていける。だからさっき言った、多職種連携の中に臨床宗教師が入っていくのがありがたいかなぁと思います。他職種の領域を侵そうってことでもないですし、他が機能していないとかそういう話でもない。連携という形で同じ現場に入らせてもらえるのが一番いいだろうなと。

 

 

編集部:なるほど。そうすると「私は宗教的ケアの専門家です。私は宗教的ケアだけをしに来ました」っていう立場ではないわけですね。

 

 

鈴木:そうです。もしかしたら将来的に、社会の認知が上がったらそうなってもいいかとは思うのです。なんかこう、病院に入ったら看護師さんが当然いると思われているように臨床宗教師もいると思われている。それくらいになればいいと思うのです。でも今はそうじゃないから、病院であればお医者さんと一緒にケアをしている一団の、グループの一員のようにして入っていく。そういうことが多いのです。というか、それじゃないと今の日本では入れない。まして、袈裟着ては入れないですよね。

 

 

編集部:ですよね。(笑) いや、それがずっと疑問でした。どうやって宗教的ケアのレベルのやり取りに入っていくのかなと。

 

 

鈴木:まずは介護施設なり緩和ケア施設なりの人たちが、この業務の価値を認知して「入ってください」ってなることがたくさんあるのです。で、「来てください」って言われてどうするかっていうと、お医者さんやナースの一団にくっついて一緒に入っていって、そこで顔を売ってくる。そうすれば、ふらっとそこを周っていくのも全然問題なくなるわけで、そこで話がでてきたり、あるいは看護師さんとかに「こういう宗教的な話が出てきたよ」ということで患者さんに紹介される場合もあるみたいです。

 

今大学病院に入っている人は、結局まあ、普段はエプロンとかで看護や介護の助手的な仕事をやっているわけなのだけれども、もっと踏み込んで工夫したりもしています。例えば、そこのお医者さんたちと話して、数珠作りのサークルなんかを作ってみんなでやったりとか、あとはまあ音楽をみんなでやったりとか。そういったサークルで自分自身で数珠を作ることで、穏やかになるのです。参加されたのが緩和ケアの患者さんであっても、です。「数珠をつけられてから、心が安らかになっていますね」といったことをお医者さんからも言われているのです。「ああ、役に立つのだね」と納得されたり。

 

そうしたことを現場の中心になって企画するというよりは、宗教的ケアが独走しないように全体の流れを把握している方から頼まれればやる、という形です。臨床宗教師としての顔を前面に出すこともなく、宗教者であることを知られた方から声をかけられれば対応する、といった感じでしょうか。

 

 

編集部:宗教的ケアの入り口となるそのボランティア活動部分のことも教えてください。それっておっしゃられるように介護的な業務が多いと思うのですが、臨床宗教師の育成プログラムの中にも何かトレーニングが含まれていたりするのですか?

 

 

鈴木:われわれの臨床宗教師育成プログラムの中では、そのような業務、例えば介護業務のトレーニングにあたるような内容はありません。実践として関わる施設等の方でそういったことをする機会はあるようですが。

育成制度について

 

編集部:先ほどちょっと申し上げた話ですが、昨今医者であったり看護師であったりという形で現場に関わっている専門職の人たちの中に、現実の実践・臨床の場でスピリチュアル・ケア的な部分の必要性がどんどん高まっていることを感じる方が増えてきています。

それに応じて、そこを担える教育を提供するところも複数出てきていて、それが資格制度に変わりつつもある。それが様々なところで同時並行的に進んでいる。

そのあたりの動きに対して鈴木先生はどう見ていらっしゃるのかとか、それをどういう形で生かすべきだとか、例えば連携とか。そのあたりはどのようにお考えでしょうか?

 

 

鈴木:まず、僕はそちらの方とはまだあまり接触していないので、不勉強で具体的なことはわかっていないのです。でも、その方向の方たちと相乗りできるのであればしてみたいと思います。

 

今度、上智大学でも出来ますね、実践宗教学研究科っていう大学院が。あそこは看護師さんも対象になっていますので、修了者が皆「臨床宗教師」と名乗るわけではないようです。

 

今は文学部なんか潰してしまえばいいといった馬鹿な話も出てきているから、ちょっと向かい風が強いのです。もっと言うと国立大学の予算はどんどんと減ってきているので、新たにポストを作るのは難しい情勢です。既にあるポストを組み替えることの方が現実的ではある。けれど、そこは既得権でどこも嫌がるのです。当たり前ですね。

ただ、まだちょっと微妙ですけれどもこの前の教授会で臨床宗教師養成を基幹講座化しようという今後6年間の計画が決まりましたので、いずれそうなると思います。

 

 

編集部:そのように基幹講座になった場合は大学院になるのでしょうか?

受講者に宗教団体で布教できる者として認められるレベルにあること、つまりプロフェッショナルじゃなければいけないという話があったと思うのですけれど、そういう意味で大学院の方が適しているのかなと。

 

 

鈴木:そうですね。その基幹講座は大学院ですね。たとえば宗教系の大学を出た後の大学院といった位置づけですね。そこで修士号を勉強しながらそういうこともやってくことを想定しているので、たぶん人数としてはあまり多くはとれないと思っています。

それで言うと、今は「宗教者なら誰でも」というのを3ヶ月単位でやっているわけです。これまでのこのやり方とマスター~ドクターまでの大学院での基幹講座とでは、おそらく少し色分けしていくことになると思っています。

 

現在のスタイルは、3ヶ月間で3回仙台に来てもらいあとは日本全国いろいろなところで実習を受けることで一応研修は終わります。それに対し、基幹講座とした場合には大学院の入学試験を通らないといけません。英語の試験もあるわけです。社会人の中には英語の試験を受けるのを嫌がる方も多いので、そちらで進学する方はもう少数だと思います。

 

将来そこでマスターなりドクターを取れるような人が出てくると、臨床宗教師の再生産をする機関が日本全国に広まり、結果として臨床宗教師の社会実装が実現すると考えています。そういう意味でその大学院は先生を作る機関かなと思っています。

 

 

何で稼ぐのかということ

 

編集部:本当に臨床宗教師としてやっていくという部分で大事になるのが、ビジネスというかですね、要するに稼ぎをどうするのかっていうところが大事になるかと思います。あえてここに踏み込んでお聞きしたいと思います。今は施設や緩和ケアに入られるときは、無償のボランティアで入られるわけですね?

 

 

鈴木:スタートはそうでした。けれども、今は正規に雇用されている場合もあります。臨床宗教師と名乗って雇用されているところもあります。ただ、実際にはどういう形で雇用するかは難しい部分があります。

実は、僕の友人で県内の県立病院の院長がいるのだけれども、彼がすごく喜んでくれて、「自分のところにも緩和ケア病棟を作るからぜひ入れたい」と言ってくれているのです。

ただ、「入れたい」って言いながらもすごく悩んでいるのがお金のことです。「保険きかないしなぁ。どこからお金を支出しようか…」と。結局、「一般の事務職として採っておきつつ実際は宗教的ケアの仕事をするといった、読み替えみたいなやりかたくらいしかないかな」というところで模索中です。

 

宗教的ケアが、いわゆる保険報酬をもらうものとして活動できるような社会にはなってないですから、医者や看護師であったり介護士のような特別なインフラは期待できない。

実は「臨床宗教師」というのを作りたいとなったときに、大学の中でも財務の人から言われたのです。「これで作る臨床宗教師というのは医者と同じくらいの給与を取るのですか? それと同じくらいの高度職業専門人なのですか?」と問われてしまって、「それはもう社会が認めるかどうかです」という話をしたのだけれども、厳しいですよね。

 

臨床宗教師としての活動で十分な給与が貰えるかどうかはわかりません。「看護師さんくらいなのか? いや、一般事務なのだろうか?」といろいろ議論のあるところですが、今のところは、多くが一般事務扱いです。

でもたぶんその中で「そういう人たちのお陰で、とても安楽に逝くことができた」とか、みんながそのことに感謝するっていった実績が蓄積されてくれば、それは本当に特殊能力者であるっていうことで、そういう人たちに対する応分の稼ぎを出す仕組みっていうのができておかしくないと思うのです。

けれども、僕自身にはちょっとそういう経済的な機構のなかでどうしていったらいいかっていうのはよくわからない。ただ、「簡単には出来ないだろう」とは思っています。

 

ただ、今やっている人たちは「稼ごう」と思ってやっているというよりも、お金の稼ぎは最低限であっても「こういうことをしなければ」と考えている人が多いのは確かです。

さらに言うとね、既存仏教界の中でもトップクラスの方で、仏教系の大学で重要な立場の方が、臨床宗教師の話を聴いて「こうした養成コースは、うちでも欲しいね」ってすぐに関心を示されたこともあります。

どういうことかというと、その大学には僧侶になろうと勉強している方が学生として多く在籍しているのです。けれども、結局お父さんもおじいちゃんも元気だと、おじいちゃんが住職、お父さんが副住職で「お前、まだ帰ってくるんじゃないよ」って話になる。結局長いこと会社勤めであったり、役場勤めになる。そういう人がいっぱいいる。

 

そこでその方が何をおっしゃったかっていうと、「こういう研修プログラムの資格をうちの大学で取り、卒業後は宗教者として病院の緩和ケア病棟等で勤められるなら(おじいちゃんやお父さんと同じ宗教者として、名乗れるかどうかは別ですけれども)、実質的に宗教者として活動して、それでずっと成長していくことができる」

住職や副住職になるまでに、その経験をずっとしていけば、とてもいいお坊さんになりますよね。つまり、若いうちは相当苦労すると思うのだけれども、死を見つめる人の傍でいろいろ話をしなくちゃならない、そういうことをキャリアとしてずっと積み重ねていったらね、いいお坊さんになりますよ、これはね。

 

せっかく宗教者としての芽を持ちながらも、それを活かすことができないままに会社員や公務員のお仕事を何十年も続けてしまうのって、本人にとっても周囲にとってももったいない。「そういった仕事ではなくて宗教的ケアの仕事で経験を蓄積できれば、お寺さんにとってもいいだろうし、救われる人もいてそれは本当にいいことだと思うし」って。「やあ、うちにも欲しいなあ」ってすぐおっしゃいました。

 

また一方で、「イエ制度が崩壊していく時代の檀家制度はどうなるのか」といった問題も考えていかなくちゃいけないと思っています。そういう時代ですけれども、ただすぐに檀家制度がなくならないのも事実なのです。家という仕組みで寺と檀家がつながっている、こういう関係の中でお寺の息子さんが将来的に寺を継いでいくというシステムも、決して悪くないと思います。

このようなお寺がしっかりとあることで、「地域包括ケアシステムに対応できる立派な地域なのだ」と世間に評価される。地域での看取りを推進する一番の専門職として社会に期待されるシステムだと思うのです。

 

 

編集部:確かに、そういう役割を果たすようになると素晴らしいですね。

経済的な機構の中で…ということで言えば、医療や介護の世界って要は公的保険で成り立っていて、9割なのか、7割なのかはあるとしても、そこで成り立っている部分ってありますよね。こういった構造の中に臨床宗教師を成立させるのはやはりすごく難しいことなのでしょうか?

 

 

鈴木:そこがね、僕の院長の友人にもね、いつも言われるのです。「事務として入ってもらうしかないのではないかなぁ」って。そこがね「単なる事務じゃないですよ」って。

「その能力が認められることをどう担保できるか」ということが、非常に重要な問題だと思うのです。そこのところで、現在臨床宗教師としての活動で稼ぎ始めた人たちがいまいくらぐらい貰っているのだろうってところも含めて、値段というよりはそこでの地位がどうなっているのかってことを調査中なのです。126人に対して今、あなたはどういうところで働いていますかっていうのを再確認しているところなのです。

 

そこのところをきちっとすることによって、なんらかのやり方でクリアする方法を見出したところもあるかもしれないのです。それと、126人中実際に何人くらいが、そういうところに勤めているのか、再確認の意味でアンケート調査しているところです。

 

出口という部分については、僕らはあまりそこまでの面倒を見られないのが実際です。研修をして養成をして…っていうところまでが僕らのカバー範囲で、そこからは各自がしっかりとご自分で取組んでいます。

皆さんもう一生懸命やろうとしていて、特に熱く燃えているのが九州です。中でもこないだの地震で大変な状況となった熊本です。Café de Monkもやっていて。キリスト教の教会が拠点になっているのです。だけど、キリスト教会の人だけでなく浄土真宗のお坊さんだとかいろいろな宗派の人が混ざって、様々な活動を一生懸命やっています。今回の震災に早くから対応されて活動を展開していることも、臨床宗教師がこの地域に根付いている証左だと言えるでしょう。そういうところもありますね。地域によりますが。

 

 

編集部:その活躍の場として高齢者向けの介護施設も含まれると思います。最近はそういった介護施設の中で、お別れ会とか偲ぶ会、もしくは家族会とか遺族会といった様々な形で、供養儀礼的な要素を含むイベントがおこなわれ始めています。特定の宗派とかの儀礼ではないので宗教的と言えるかはよく分かりませんが、少なくともメモリアル的な要素は多分にある。

特に遺族会とか看取りのお別れ会はかなりそういった側面が強いです。もっとはっきり言えば宗教儀礼っぽい。「宗教儀礼ではない」という建前は堅持していますが、実際はそういった空気感です。少なくとも供養という側面はとても強い。

 

そこにこう、臨床宗教師が主導的役割を果たしていくという可能性は強く感じますがいかがでしょうか。

 

 

鈴木:ええ、果たしています。その「(看取りの)お別れ会っていうのは宗教的なのです」っておっしゃられましたけれど、正に今まで看護師さんではなかなかできなかったことです。お医者さんでもできなかったことです。いわゆる普通のお別れ会じゃないわけですから。それならお医者さんでもできたし、看護師さんでもできた。

 

今おっしゃったお別れ会というのは、宗教的なものですね。まさにそういうところを誰が担うのかっていったら、宗教者じゃないですか。

 

 

編集部:その辺は現実の必要性から生まれてきた新しい形の供養であり、宗教行為だと思っています。私どもが発行している「月刊仏事」という供養や仏事領域の月刊誌の誌面には、時代の変化の中で形骸化が進んだ供養儀礼や宗教的な活動・慣習が、じわじわと縮小・衰退していく…といった内容の記事がどうしても多くなりがちなのです。

 

しかし、ターミナルケアという切り口で医療や介護の世界に踏み入るようになって、日本全体、つまり様々な領域で起きていることを俯瞰して観ると、「そういう流れだけでもないぞ」ということに気付き始めました。

既存の形骸化した儀礼が衰退していくこととは裏腹に、宗教的もしくは供養的なニーズ自体は無くなるどころかむしろ強まっており、それを受けとめるコンテクストでこれまでとは違う形をとった儀礼が育とうとしている…といった息吹を感じています。

 

 

鈴木:その辺がまさに僕の領域で宗教学的なデータがいっぱいあります。例えば死後霊魂の存在を信じる人がどれくらいいるかって言う調査を1952年以降新聞社でずっとやってきていて、僕は2003年と2010年と2度、全国調査しているのですけれど、どちらも多くて6割くらいの人々は死後霊魂の存在を信じているのです。

 

どのときも2割から3割は「そんなのは無い」という。つまり、明らかな否定は2割から3割です。それ以外は「いる」とあと「分からない」。その「分からない」がどういうことかと言うと、どういう調査方法なのかってことがポイントになります。対面的に「あなたは死後に霊魂がいると思っているのですか?」って訊くのです。そう訊いたらそうなりますよね。正面から訊いたら。

でも本音を聞きだすとね、やっぱり「いてほしい」といった希望的意見まで含めてしまえば、死後霊魂の存在を信じている人は常に6割くらいはいるのです。

 

もっと言えばですね、「1年に1回以上お墓参りに行っていますか?」という、これも古くから繰り返されている調査項目があるのですが、大体7割です。7割の人は、1年に1回はお墓参り行っているわけですよ。「なんで行くのですか?」って「石が好きだから」ってことではないわけです。

つまり、そこに死者がいるとどこかで思っていなければ、なんらかの意味で出会えると思っていなければ、行っても意味がないですよ。そこが正にね、僕は宗教って言い方より信仰って言い方でいいと思っています。

 

キリスト教的に言うとどうかって問題はありますけれど、日本での「信仰」という言葉と「宗教」という言葉がどう使い分けされているかと言うと、「信仰」のほうが大きくて、信仰の中のより組織性の高いものを限定して「宗教」って呼んでいることが多いです。教義・教団がしっかりとしているものが「宗教」という。

「宗教なんてめっそうもない」なんておっしゃる方に「あのお地蔵さん、信仰しているのですか?」って聞くと「そりゃしてるよ」となる。

 

つまり、「信仰」というのは非常にぼやけていながら広範に共有されている。組織性はないのだけれどもちょっとそういうのも含まれている。

より組織性の高いことになると「そんなことは……」って否定的になるのが普通なのです。だからそういう人たちの多くが死後、霊の存在を信じているわけです。そういう人たちに「宗教ですか」って聞くと「そんなもんじゃないです、民間信仰なんです」と。そんな言いかたが返ってくるのです。

 

だから、そういった信仰を求める気持ちが、キリスト教だ、仏教だっていうものではない、「宗教」に流れていくこともあるわけです。いわゆる既製宗教的な「すでにあったもの」とは違うところに流れていくっていう。

 

 

編集部:また、組織や教義ははっきりしない「信仰」のまま、儀礼的な事柄を重視するようになったりもする。先ほどでてきた介護施設内で行われる「特定の宗派の色を持たせない(看取り後の)お別れ会」なぞはまさにその典型かもしれません。

臨床宗教師の方々には、そういった領域でも必要とされる重要な役割を果たす存在になり得るということですね。

更新日:2016年08月26日


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臨床宗教師とは何か 理念、役割、ビジネスモデル

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